ほぼ33歳男子。日本拳法入門

日本拳法のこと

1992年4月 地獄から天国へ

1992年4月。営業へ転勤となった私(現:武者  英佑、旧:タテケン)は東京都内の本社勤めとなった。
都内の新進気鋭、発展が続く街、豊洲での勤務。しかも本社ビルだ。

それまでのバンキングシステムSE時代。
毎月150時間以上の残業は当たり前。
休日休日出勤当たり前。
仕事で2、3日会社に泊まりこむのは当たり前。

当時は仕事最優先の世の中で、
「知人がアキレス健を切ったので、私の車で病院へ連れていくため休みます」
と職場へ電話すれば、課長から
「お前は、仕事と友達のどっちが大事なんだ?」
と言われたものです。

こんな事を課長から言われたら、気の弱い私ですから、
「もちろん、友達です!」
でガチャ切りしていた。
こんなんですから、出世するはずがない(笑)。

さて、1992年4月から始まった、営業マン生活。目の玉が飛び出る程びっくりした!

サービス残業が一切無い!
しかも、残業は月20時間~30時間。
さらに、休日出勤が無い!
週休二日できっちり休める!
ゴールデンウィーク、正月など祝日は完全に休める!

それまでは、大手町や厚木の山奥で徹夜が当たり前のSE職。
大袈裟ではなく、
「本当に同じ会社かよ!」
地獄からの天国へのウルトラパラダイムシフトだった。

30歳の年に、バドミントンを再開

SEを辞めて10ヶ月間の研修所生活(この研修所の話はまた今度)で、79キロになっていた体重を74kgへ落としていた。
そして、営業で配属されたのは、ネットバブル全盛の本社ビル
18階には、フィットネスルームが常設されていた。

昼休みと業務終了後には、フィットネスルームへ毎日直行!
雑巾を絞るが如く汗を流し、全身の筋肉を鍛え上げた。
10ヶ月で11キロのダイエットに成功し63kg、体脂肪率は一番低い時期で6%程になっていた。
体重63キロとなった私。引き締まった己の体を鏡で見て決意する。
「12歳からSEになる前までの21歳までやっていた、バドミントンを再開するぞ!」

とはいえ、私のプレーは全盛期とは程遠い。
再開したばかりの頃は、思い通りにできない。
「思い通りにできないで、ストレスが溜まる!」
これを理解できるアスリートは多いだろう。

しかし、青春時代に注力したバドミントンはやっぱり楽しい。
三重県実業団リーグ4部、3部優勝。
荒川区バドミントン選手権中学ではシングル優勝、ダブルス優勝。
社会人一部でシングル優勝。団体戦優勝。ミックスダブルス優勝、ダブルス準優勝。
これらの実績も伊達ではない。
バドミントンを再開して2年後には、私が仲人をやった後輩と組んで、市大会一部で3位になった。

「このままこの地に住み、往復3時間40分の通勤に耐えて仕事をして、子供の成長とバドミントンを楽しみに、生きていくのも悪くないな」

そんな風に思い始めていた1995年のある週末。いつもバドミントンの練習をやってる市民スポーツセンターに、一枚のポスターが…

日本拳法道場生募集!

「日本拳法?道場生募集か…。猪狩元秀や渡辺二郎のがやっていたあの日本拳法か?」
ポスターの中では、四方をロープに囲まれたリングで、あの日拳の鉄面を付けた選手が、後回し蹴りを相手の面へ撃ちこんでいた。

私が高校生の頃だ。自宅から自転車で10分ほどの宮地交差点の一角。道から中が丸見えの煌びやかな大きなウィンドウを備えた、ボクシングジムが開設された。私と同様(というか、私が格闘技好きになったのは父の影響大)に、格闘技ファンだった父が母に言った。
「あの新しくできた、ボクシングジムへ英佑を行かせるか?」
「嫌よ。ボクシングなんて」
との母の一言で、父(私も?)の夢は砕けた。
それから4年ほどして、宮地交差点にあったボクシングジムから、世界チャンピオンレパード玉熊が生まれた。
「え?俺がやっていたら、俺だったんじゃないか?」と勝手に妄想を爆発させたものだ(笑)。

日本拳法道場生募集のポスターを見た、32歳と11ヶ月の私。
「今か?今なら格闘技が出来るかも知れない」
体力への自信が復活。
ダイエットに成功しバドミントンも復活。
元少林寺拳法准拳士のプライドも小さじ半分ぐらいある。
心配なのは32歳11ヶ月という年齢だが…。いや、むしろ今やらないと一生始められないかも知れない!
私は、ポスターに記述されていた番号へ電話した。

正直な気持ち「日本拳法の道場か…。ちょっと怖いな」と考えていたが、私も32歳の大人なので、平静を装い電話機のボタンを押した。
「ハイ」
「黒旅館さんですか?」
「そうです」
「入門したいのですが」
「はい、判りました。次の稽古は…11月5日ですので道場へきてください」
「(なんか、ぶっきら棒な人だなぁ。館長なのかな)あの~、格闘技は全くの素人なのですが…」
お気づきのとおりこれは嘘。企業内学校のサークル活動にて、金剛禅少林寺拳法初段を取っていた。

この頃の武道事情が良く判っていなかった私は「元少林寺拳法准拳士です!」とか言ったら「この野郎!他流派か!」と、何かされるんじゃないかとびびっていたのだ。

「ちゃんと指導しますから大丈夫です」
「格好は柔道着で良いですか?」
「何でも良いです。タオル2本と軍手も持ってきてください」
「タオル2本と軍手ですか?」
「そうです。防具稽古で必要です」
「いきなり組手ですか?」
「大丈夫です。ちゃんと指導しますから」
「はい…」
「では、当日お待ちしています(ガチャ)」

なんか、怖えぇぇぇ。

道場へ乗り込む!

「お!あった!あった!」
黒綾館へ入門前日。タンスから少林寺拳法の拳法衣を引っ張りだした私。
「館長が柔道着でも良いと言っていたからな。少林寺拳法の道衣でも良いだろう」
そう準備をしていた私。
「いや待てよ。表卍が付いてるじゃん。入門初日に他流派の道衣着て稽古に参加してたら…。(何だよあいつ。少林寺拳法やっているを鼻にかけてんのか?)なんて思われたらどうしよう…」
結果、稽古初日はバドミントンのジャージで参加する事にした。

1995年11月5日。私は日本拳法黒綾館の門を叩いた。
稽古開始時刻の17時の5分前に道場に入ると、屈強な男たちが3名ほどにこやかに談笑している。
そして、長髪の爽やかな25歳ぐらいと思われる若者が一人、私に近づいてきた。
「あ、入門者の方ですか?」
「はい。タテケンと申します」
「私はマネージャーをやってますOです」
「よろしくお願いします」

稽古開始時刻になると、館長がやってきてOさんの指導で稽古開始。
準備運動をやっていると、続々と屈強な男たちが遅れて道場に入ってくる。
後で知る事になるのだが、黒綾館は町道場で社会人中心。そのため、稽古に遅れる、稽古を途中で抜ける。これは自由。
準備運動が終わる頃には、屈強な男たちは9名ほどになっていた。

基本稽古が始まろうとしている時に、
「英佑くん。君は別にやろう」と、館長からマン・ツー・マンで指導を受ける。
館長が、日本拳法の全くの素人だった私に、並行立ち、波道突き、正面突き、左構え、直突き、揚げ蹴り、突き蹴りを別メニューで指導してくれた。

防具稽古を見学

基本稽古が終わり、防具稽古へ。入門仕立ての私はもちろん見学。
屈強な男たちは慣れた手つきで、防具を付けていく。
当時の黒綾館には、日拳の防具はもちろん、スーパーセーフもあった。(スーパーセーフの方が安いので、購入したらしい)。
面、胴、グローブ、スーパーセーフを興味深々に見ていた私に、
「防具は結構重たいんですよ」とマネージャーのOさん。
「殴られると、結構効くんだよな」とフルコン空手出身のKさん。
「スーパーセーフ付けると、顔面を蹴ってくるんですよ」と伝説のトーナメントオブJに出場した、総合格闘家のOくん。
など、皆さん色々と親切に教えてくれながら防具を付けた。

(あれ?思ったよりも和やかな雰囲気だな)

「試合稽古はじめます。KさんとOくん」
審判をやる館長が、対戦者を呼び出し防具稽古開始。
マネージャーのOさんが時計係。その隣に立った私に、Oさんが色々と教えてくれた。
「日拳の一本は、防具が無ければ倒れている威力が必用」
「撃力、技形、気合が揃って一本です」

生まれて初めて見た、日本拳法の乱取りは衝撃的だった。
「こんなに思いっきりぶん殴るのか?」
「とんでもない回し蹴り!」
「まるで喧嘩じゃないか」
殴り合い、蹴り合い、組討ちで投げを討つ。寝技になれば関節を狙う(特にOくん)。
そして、一本決まった時の「バンッ!」と、道場に鳴り響く打撃音。
いやはや、なんとも凄いところへ入門してしまった。
「こんな事、俺が出来るのか?」
そんな不安で、私は一杯になっていた。

稽古が終わって…ない?

「じゃあ、Sくん。防具を取って」そう館長に言われたSさんが防具を取り始めた。
「英佑くん。Sくんが外した防具付けて」
え?
「Oくん。英佑くんに防具の付け方教えてあげて」
え?
何言ってます?
館長?
私はたった今、防具試合見たばかりのド素人。
「タオル2本持ってきました?」と、当たり前のようにマネージャーのOさん。
「持ってきましたけど…」
「ああ、大丈夫ですよ」
と、心配そうにしている私にそう言って、Oマネージャーが防具の付け方を指導してくれた。

「金的、内胴、外胴、面と下から内側から付くと覚えてください」
「頭にタオルを被るようにして、折りたたんだタオルを顎につけて…」
軍手をはめて、グローブ付けて、準備完了。
ジャージの上に防具をつけた、入門者丸出しくん完成。
防具は重いけど頑丈。これなら殴られても…。
だけど、やっぱり怖い。

本当に大丈夫なのか?

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